雖然早畢業了,但是因為沒有離開校園,總覺得自己還是北大生。而五月底就要離開札幌了,這下子才有真的要結束我大學院生活的感覺。想和大夥分享我院生一年級寫的報告,不過這份報告不想讓大夥睡著,所以我將較學術的部分刪掉了,只保留我來日本留學後文化衝擊的體驗記的部分。現在此刻來看這份報告,特別覺得有意義,希望我回台後不要有「逆文化衝擊」。另外,照片為我的畢業照。

私のカルチャー・ショック体験記

 

 「ごめん、飛行機の座席が取れなかったので、行けない」母は電話で私にそのように言った。私は耐えきれずに、泣いた。それは、留学して以来、母からの初めての電話だった。自分がまるでお菓子がもらえない子供のように泣き続けた理由は、母が来られなくなったせいではなく、ただ、自分が非常に信頼できる人の声を聞いたことで、留学して以来、心の中に積み重なり続けた孤独感、寂しさを、一度に全部、慣れ親しんでいる人に伝えたくなったためだったのだろう。実は、自分がなぜそんなに泣いたのかはずっと、理解できなかったのだ。当時、北海道に留学して一ヶ月のみで、毎日、楽観的で、前向きに留学生活を過ごしており、新たな生活環境を新鮮で好奇心に満ちたものに感じていた。しかし、カルチャー・ショックは異文化体験をする者はほとんど例外なく経験するものであるようだ。もちろん、私も例外ではなかったのである。

 私は北海道に留学する前に、留学した経験がなかったが、仕事と旅行で20回程、日本へ来たことがあった。また、仕事上で、異文化と接触する機会が多かったため、楽観的に世界の人々とフランクに付き合おうと思った私は、実際に留学して以来、気持ちで日本人学生をあまり仲間にいれなかったと感じ、無意識のうちにカルチャー・ショックの症状にかかったようだ。

 カルチャー・ショックの症状は、人によって程度の差があり、自分はおそらく最も軽いのだろう。そのため、カルチャー・ショックの例としては好例とは言えないかもしれないが、しかし、今まで勉強してきたカルチャー・ショックの知識と自分の経験を振り返って、検討してみたいため、最終レポートでは自分のカルチャー・ショックの体験を述べたい。

 カルチャー・ショックの段階

 ここでは、様々な資料を参考にしながら、私の経験を総合し、今までの段階(200210月から20038月)を三つの段階に分けることとする。また、その三つの段階は分離しながら、カバーする場合もあると思われる。

 Ⅰ、第一段階:ハネムーン期

 見るもの聞くものすべてが新鮮に感じられ、異文化滞在者が比較的うまく適応できていると感じる段階である。この段階の期間は人、状況によって異なるが、数週間から一年ほど続くとされている。私の場合はその段階がかなり長く、現在も続いている。

  日本に留学することは私の長い間の夢であった。夢が実現しそうになったとき、当然興奮するものである。また、その際、私が日本に来ている主な目的は学位のためではなく、日本語と自分が興味をもっている北海道観光を学ぶことであるため、学業からのストレスはそんなに大きくはなかった。また、自分が好きな学問を勉強できるのは少しも苦ではなかった。そのため、200210月下旬から半年の間、留学生センターで日本語授業を受けながら、国際交流活動や旅行などの活動にも積極的に参加した。その間に、多くの国からの留学生と知り合いになり、友達になった。毎日、高揚状態にあり、嫌なことがあっても、楽しんでいた。

 Ⅱ、第二段階:ショック期

 日常生活や学校生活のうえで、さまざまな困難に遭遇し、無能力感や孤立感などを経験し、「拒否」や「攻撃」のような行動を起こす恐れがある。

 私の場合は、2003年4月、大学院に入った頃が、私のショック期だと言える。留学してから、殆ど留学生と交流していたため、大学院の生活に期待していたにもかかわらず、日本人学生と一緒に勉強することに非常に不安になったり、落ち込んだりした。大学院の新生活は予想できないものであり、そのような不慣れな環境に慣れようとする努力による緊張感、そして日本語力不足の問題でうまく日本人とコミュニケーションができなかったために不能力感という症状を持った。そのうえ、日本語力の不足のため、授業や課題など学業からのストレスも極めて大きかった。その結果、あまり日本人学生と話したくなくなり、研究室も入りたくなかったため、新入生歓迎会にも参加せず、研究科のことには一切無関心にしているような「拒否行動」を起こった。

 Ⅱ、第三段階:適応期

 新しい環境に慣れていく。文化的差異やショックをどう扱ったらよいか身をもって学び、徐々に異文化環境に適応してくる段階である。

  私の第二段階のショック期は非常に短かった。ショック期の症状を発見した際に、他の留学生と相談する、留学した経験をもつ友人の意見をよく聞くなどしたため、ついに、心を広げ、徐々に日本人学生と交流できるようになり、大学院生活への適応が少しずつ増してきた。

 実は、本研究科は多くの学生が海外留学した経験があり、留学生の気持ちもよく知っており、留学生とうまく付き合っている学生もかなり多い。大学院生活に慣れていくにしたがって、日本人の学生の親切さも発見し、友達になっていった。もちろん、複雑な内容についてまだうまく表現できないということがわかってくるが、しかし、ショック期の失望や挫折感は現在、全く感じない。 

 一、  拒否行動

  人間はストレスを生むほどの新たな状況に遭遇すると、自己防衛のために、普通「拒否」や「攻撃」の行動に出る。私の「拒否行動」は下記の理由があると思われる。

  まず、日本人の閉鎖性と関係がある。日本人は日常の対人関係において、自分の内面的な気持ち、行動、思考などを相手に表明する度合いが少ないという閉鎖性に対しては、外国人からの批判は非常に多い。もし、そうした閉鎖性が日本人の民族性で、容易に変えることができない場合、外国人の私はそれにどう適応するのかが自分が関心を持っている部分である。私は留学生センターで他の留学生とうまく付き合っているため、日本の学生とも恐らくうまく交流することができるだろうと自信を持っていたが、実際に大学院に入ったら、予想と異なっていたため、打撃を受けた。例えば、日本の学生は留学生に対してあまり関心を示さなかった。また、言語の壁もあって、あまり仲間に入れなかった。コミュニケーションがうまく図れないとなると、新環境の受け入れるのを拒むことになり、日本の学生となるべく接触しなかったのである。

 しかし、現在、そのショック期を振り返れば、当時、急速に日本の社会に入りたかったため、他人の態度や行動を非常に気にしていた。しかし、日本人の学生も新環境に入ったばかりで、新環境、新クラスメートに適応する点において私のように不安だっただろう。また、自分は「留学生」というタイトルを非常に気にしたため、他人からの理解と関心があるべきだと思った。そして、自分からも主体的に日本の学生と交流をしなかった。

  次は、日本語の問題について述べたい。私が日本人の学生の仲間に入れなかった主な理由は日本語の問題である。池田[1]は「対人関係において相手のサインやシンボルが読み取れない、つまり相手の言っていることやジェスチャーが理解できない、あるいはそれらの微妙なニュアンスがわからないとなると、なかなか友人が作れない。」と述べている。私の日本語の程度は下手ではないが、上手だとは言えない。自分の意思をなかなか思うように伝えられなかったため、対人関係においても自信を持てなかったのである。

 しかし、前述のように、本研究科の学生は留学生に対して非常に好意を寄せており、留学生に対して特に関心を表明しなくても、留学生に何か問題があったら、熱心に助けてくれる人が多い。自分もよく日本人学生から協力してもらっている。しかし、相手に何かしてもらおうという態度で、ただ黙っているだけでは、何も始まらない。まず、自分が何をしてもらいたいのかをはっきり伝えているかどうか考えてみるべきである。また、相手と自分の意図を確かめ合い、自分の意思を的確に相手に伝えられる表現力も訓練すべきである。

 二、  異文化適応

 自分は異文化理解やコミュニケーションにおいて、まだ様々な問題があり、日本語の問題もある。そして、これから、帰国の際に、「帰国ショック」にかかるだろう。しかし、今回のレポートを通して、いままでのショック期を検討しながら、異文化適応において、より一歩に進んでいるだろう。これからの留学生活はより一層前向きに進んでいくだろう。

  

 

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